私が私らしく生きられる場所と信じて[山林 No.1382]平成11年7月5日発行


一  林業を始めるまでの経緯

 

私が初めて山に行ったのは、確か小学校の二年生の夏だったと思います。弊社の山林は、当時より三重県一志郡白山町、岡山県英田郡西粟倉村、同苫田郡加茂町の二県三ヵ所に分散しており、私が行った山は加茂町でした。それまで、自宅(兵庫県伊丹市)の近くにある猪名川、淀川等の大きくて汚い川しか知らなかった私は、見たことのない清流に感激しました。裸足になって川の中に入るとひんやりして心地よく、水の音は豊かさの象徴のようで心が落ちつきました。山では都会の家では体験できないようなことがたくさんあり、それ以来、学校の春休みや夏休みの休暇中に父が加茂町へ行くことがあるとついていくようになりました。もちろん当時の私は、山林の意味など全く分かっておらず、春にはツクシやワラビといった山菜採りや花摘み、夏にはセミとりや川遊びが目的でした。そして、何よりも日頃は忙しい父と出掛けられるのが嬉しかったからのように思います。ただ、当時はまだ作業道が完備しておらず、山の具合をみるためには歩くしかなかったので、それが非常に退屈ですぐに帰りたがっていました(残念ながら今でも苦手です。)この頃の父たちの会話を多少覚えており、後で役に立つことになりました。ところが、小学三年生の冬に父が胃潰瘍で倒れ、当時としては生きるか死ぬかの大手術を受けました。長い闘病生活が始まり、私は山に行けなくなってしまいました。自分一人では行けなくなった父が、母に付き添われて山に復帰したのはかなり経ってからでした。それからは、山は家族旅行の先となりました。

 

手術以来すっかり痩せ細り体力の落ちた父は、家で仕事をするようになりました。そんな父の姿を見て、男兄弟もなく姉も嫁いでしまい、父を助けて会社を継げるのは私しかいないと思ったのは中学三年の冬でした。私の通っていた私立中学校は高校・大学とあり、大学には学年の約半分が推薦で進学します。しかし、その大学には私が会社を継ぐのに必要な学問ができる学部がありませんので、他の大学を受験しようと決心しました。高校の二年間、受験勉強とサッカー部の練習に励みましたが、三年生になると進級時推薦を頂けることになり、また、夏の高校女子サッカー全国大会に出場したくて受験を断念しました。これはつまり、会社を継がないことを意味しており、父はさぞかしがっかりしたことと思いますが、何も申しませんでした。

 

東京の大学に進学してからは、好きなフランス史を専攻し、テニスサークルに明け暮れるごく平凡な女子大生で、山にはほとんど行かなくなりました。卒業後は地元に戻り、木造住宅メーカーに勤めました。その頃には、山には一切行かなくなっていました。しかし、就職して働くことがいかに神経をすり減らし骨の折れることかを知り、折しもバブルが弾け日本は不景気に向いて真っ逆さまの頃で、年老いてきた父一人では会社の経営は辛そうでした。誰かサポートする人間が必要ではないかと感じるようになっていました。

 

平成七年一月十七日午前五時四六分。阪神・淡路を中心として大地は大きく揺れ、わが家も大きく傾きました。明治の頃に現在の神戸市北区から移築し、異人館の内装様式を取り入れた私の自慢の家は、一瞬にして惨めな姿となりました。「威風堂々」、そんな言葉のよく似合う家でした。もしわが家が二〇km西に位置していたら、家が全壊して生き残れたかどうか分かりません。多くの方が近くで亡くなっているのに、どうして自分は生き残ったのか。何か目にはみえない大きな力が働いて私は生き残り、生き残り続けろと言われている、そんな気がしました。永遠にそこにあると思っていたわが家があっけなく崩れたことは、永遠なるものは存在しないことを教えてくれました。そして、私をずっと縛ってきた「家・家業」から解放してくれました。また、それまで当然に思っていた「明日」は、もしかしたら来ないのかもしれないと思うと、やりたいことはやっておこうと思うようになりました。結局、勤めていた会社で、弊社の木材を使って家を再建していただいた後退職しました。

 

退職後、かねてからの希望であったフランスへの留学を実現しました。両親を説得する手段として、帰国後再び就職活動をするのが煩わしかったので、帰国後は会社を手伝うと言いました。ですから、その時はちょっと父の手伝いをする程度ぐらいにしか思っていませんでした。留学中に帰国後のことで悩まなくてもすむし、働いている友達の手前、体裁も繕えます。本当に軽い気持ちでした。

丸一年間、パリから南へ約五〇〇kmのところにあるリヨンで、フランス生活を満喫しました。ここで勉強したことはフランス語はもちろんですが、各国の抱える種々様々な、日本では知り得ない問題、考え方でした。それは、私の持っていた既成概念をも見直させました。日本の良さも悪さも発見できた一年間でした。
右に左に、時には後ろにも走りながら、こうしてようやく私は山にたどり着きました。

 
二  私の考える問題点

 

私が林業経営に本格的に参加するようになったのは、平成九年十一月からです。最初に手掛けたのは「特定森林施業計画」の更新申請書の作成でした。まず、作業のスピード化を図り、コンピュータのソフトを探しました。しかし、弊社のように山林が三県(昭和六十三年と平成元年に和歌山県有田郡清水町に山林を取得)、四地域にわたる場合、地域によって立木成長率と樹高の設定が違うため、適当な既存ソフトが見つかりませんでした。また、プログラムを新規に組んでもらうにも、五年後には成長率等の設定が変更になることも考えられ、結局、従来通りの「手書き」で作ることにしました。

 

さて、作成にあたって県の林政部に相談に行きました。使用する資料や不明瞭な点を確認し、約一ヵ月で完成、提出しました。ところが、二ヵ月以上経ってから県の方より、使用した岡山県の成長率と樹高が違っているので、林野庁から作り直しの指導を受けているという連絡が入りました。前回分の期間終了が二週間後に迫っていました。事前に打ち合わせたときに、少し係員の態度に疑問は抱いていたのです。期間終了と使用する成長率等の資料に関しては、了解をいただいたということでかなり粘りました。県の係員の方は、私が言ったことを林野庁側に伝え、林野庁側の指導を私に伝える、そんな日々が続きました。時間だけがどんどん過ぎ、期間終了日が近づき不安が募りました。結局、書き直して認定して頂きました。幸い、前年は農林漁業金融公庫からの新規借入はなかったので、多少期間切れが延びても問題なく過ごせました。「特定森林施業計画の推進」と謳われていますが、現状では難しいと思います。申請書を作成するには、各社、個人でそのための資料作成が必要です。しかし、実際に指導する立場の係員は約二年の周期で配置換えがある為か申請の方法を熟知出来ないままになっているように思います。今回は、現社長(父)の指導もあり完成させることができましたが、私のような初心者でもよく分かる指導を行政側にしていただきたいと思います。新制度発案、導入も重要とは思いますが、既存の制度の中にも相続税対策等、林業を経営する上で有効なものが多いと思います。折角の制度をもっと利用することも重要ではないでしょうか。

 

ところで、「特定森林施業計画」のメリットの一つに「相続税の二〇年の延納(長伐期の場合四〇年)」という項目がありますが、私は二〇年という数字に疑問があります。たかだか二〇年延びても大した意味はないように思います。例えば、被相続人の死亡時、一〇年生の立木は三〇年生に、二〇年生は四〇年生に成長するわけですが、果たしてこれらの立木が実際に収益を上げられるかということです。それに二〇年後に一括ではなく、二〇年間均等割です。まして、その間に相続人が死亡するようなことになればプラスαが来てしまいます。木の一世代に対して人間は二から四世代。そこに相続税の問題点の一つがあるように思います。また、農地に比べて山林にかかる相続税が高すぎるのです。地方に山林を所有している場合ももちろんですが、都市近郊林では都市に近いというだけで評価額が高くなります。私たち林業家も、農家の方と同じように土地を耕し植物を植え、それで生計を立てていることに違いはなく、それが短期間か長期間かというサイクルの違いの問題だと思います。どうして私たちだけが高額な相続税を払わなければいけないのでしょうか。また、山林の物納は許されず、これでは林業家に破産しろといわんばかりです。相続税は近い将来降りかかってくる問題だけに深刻です。幸運にも弊社は、初代社長が株式会社にし、現社長が相続税対策を施してはくれております。

 

さて、大蔵省絡みの問題といいますと、私が知る限りでは、農林漁業金融公庫の造林資金等貸付金の据置期間三五年、償還期間二〇年があります。五五年間というと長い気がしますし、インフレで返済の頃には負担が軽減するのではないかと考えがちですが、実際、四〇年生から六〇、七〇年生の間伐材では伐出コストと時間がかなりかかるため、現在の木材価格では返済の余裕がないのが現状です。また二〇年間均等割ですから、償還初期の段階は、末期の段階に比べて、木材の利益率から考えると、返済の割合が大きく占めます。ですから、初期の段階は非常に厳しいものがあります。それに、これはそもそも「特定森林施業計画」の「長伐期」政策に適合していないのではないでしょうか。加えて、保安林制度等で伐出の制限を受けており、自由に伐採することができません。ただ、今回「特定森林施業計画」を提出した際に、間伐量が少ないという指摘を受けました。これは、弊社も作業員の不足と高齢化の事情があること、現在の市況では補助金なしでは森林組合に作業を委託しても採算が合わないことなどを説明して認定していただきました。伐出したくても経営者の思うように作業が進まない、進められないという現場の実情が行政側に伝わっていないように思います。法制度、政策と現場の状況とがあまりにもかけ離れているのが林業ではないでしょうか。

 

私は、昭和三十八年以降生まれの、いわゆる「新人類」です。自分が疑問や不審に思ったことははっきり口に出します。しかし、仲間内では不平・不満を言いつつ、外には口を閉ざす、そんな体質が「山林所有者=金持ち」、「林業=儲かる」という誤解を、世間一般からいつまでも受けている原因ではないでしょうか。一度現状を訴えて、林業家が結束して一気に皆伐したらどうなるか、ぐらいのことをいってみてはどうでしょうか。

 

ところで、これは現社長の経験ですが、植林の際に三重県の苗を岡山県に植林したところ、岡山県側に始末書を提出させられました。補助金を受けるためには、植林の際に一ha当たりの植え付け本数が決められており、また、最近になって適正伐期が決められました。今の法制度、政策では、オーナーは他の山林との差別化、自社山林への特徴付けをしたくても難しいと思います。オーナーの独自性を発揮させづらいのも、今の林業の問題ではないでしょうか。

 

最後に補助金制度の不公平があります。弊社の場合、三重県に関しては現在、すべての作業が補助金で賄われていますが、しかし、他の二県に関してはゼロです。この度、やっと西粟倉村で預けることになりました。過去においては、法人だからだとか、不在地主だからといった理由で断られたこともあったようです。同じ林業で収入を得、同じように山を守っているのに、どうして前述のような理由で断られるのか不思議です。現在でも類似例は各地であるようですし、森林組合委託の作業にしか補助金がもらえないということもあるようです。

 

 
三  これからのこと

 

私が林業経営を始めて友人たちが言ったのは
「あなたが斧を持って木を伐るの?」
「植えておけば育って儲かっていいわね」
という言葉でした。世間一般の林業の認識とはこんなものかとがっかりしました。はじめのうちは、同性や同世代の人と林業の話をしても、分かる人がいなくて苦しみました。

 

昨年十一月に、日本林業経営者協会婦人部の鳥取研修旅行に参加し、そこで先輩方にお会いし話を聞いていただき、その上同世代の友人もできました。それまでイライラしていたのがウソのように治まり、平静を取り戻して前向きに考えられるようになりました。そして、まず思いついたことは、私の友人たちに林業を知ってもらおうということで、これは今秋か来春にも実行する予定にしています。それが林業にどんな効果があるか等は考えていません。少しでも多くの人に林業という産業を知ってもらいたい、というのが私の希望です。また、日本は工業国で至るところ工場だらけと誤解している外国の友人たちにも、日本は国土の七〇%は森林で、豊かな自然のある国だということを紹介していきたいと思っています。

 

以上のことは、あくまで私の個人レベルのことです。林業経営者としては、林業が抱える問題に取り組み、前田林業株式会社の利潤追求、社員の生活の安定など、やらなければならないことは多々あります。何分、法制度、税制度、人生経験とあらゆる面で不足しているので、これから先どれだけ持ちこたえられるか分かりません。しかし、ここが私らしく活動していける場所と信じています。少しでも長く続けられるように、これからしばらくは勉強の期間とし現在、京都大学農学部に研究生として通っています。その他にも即役に立つ、立たないは別にして見本市・イベント・会議にも足を運んでいます。また諸先輩のお話などを伺いながら、より一層林業に関する知識を増やし、その上で私なりの林業家としてのこれから生きるであろう四〇年を設計したいと思います。御指導を願いたいと思っています。

 

『山林 No.1382』
大日本山林会
平成11年7月5日発行